世界線日本史同時代史アーカイブ
関ヶ原の戦いを象徴する旗指物と合戦のシルエットイラスト

慶長5年

関ヶ原の戦いの時、イギリスとオランダで何が起きていたか

1600年10月21日、関ヶ原で天下分け目の戦いが起きた。同じ年、イギリスではエリザベス1世が東インド会社を設立し、オランダの船が偶然日本に漂着していた。

戦国時代の旗指物と陣立てのシルエットイラスト

日本

慶長5年9月15日(グレゴリオ暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に石田三成らが結成した西軍が激突した。豊臣秀吉の死後に噴き出した政権内部の対立が、日本全国を巻き込む戦いへと発展したものだった。

合戦は東軍の優勢で進んだが、その最大の要因は西軍についていた小早川秀秋の裏切りだったとされる。開戦から半日ほどで趨勢は決し、西軍は総崩れとなった。この勝利により徳川家康は天下人としての地位を確立し、後の江戸幕府開設への道を固めた。

この年、日本にはもう一つの出来事があった。オランダ船リーフデ号が豊後(現在の大分県)に漂着し、乗組員のイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)らが家康と接触することになる。

帆船と貿易船団を象徴するイラスト

イギリス

東インド会社の設立

関ヶ原の戦いと同じ1600年、イギリスではエリザベス1世が特許状を与え、東インド会社が設立された。香辛料貿易の独占権を得たこの会社は、後にインド支配の中核を担う存在へと変質していく。

エリザベス1世の治世はこの頃すでに晩年に差し掛かっており、彼女自身は1603年に亡くなる。奇しくも、関ヶ原の戦いに介入したとされるリーフデ号の乗組員ウィリアム・アダムスへ支払われた金銭の記録がイギリスの公文書に残っており、当時のイギリスが東アジアの動向にも関心を寄せていたことがうかがえる。

漂着した帆船を象徴するイラスト

オランダ

リーフデ号の日本漂着

1600年4月、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着した。乗組員の中にいたイギリス人航海士ウィリアム・アダムスとオランダ人ヤン・ヨーステンは、その後徳川家康の外交・貿易顧問として重用されることになる。

オランダはこの2年後の1602年、複数の商社を統合して連合東インド会社(VOC)を設立し、東アジアでの貿易競争に本格的に乗り出していく。関ヶ原の戦いの年は、後にオランダが日本と長期にわたる貿易関係を築く出発点でもあった。

なぜ同時期だと面白いのか

関ヶ原の戦いと東インド会社設立に直接の因果関係はないが、両者は「新しい秩序の始まり」という点で共鳴している。日本では徳川家による約260年続く支配体制の土台が築かれ、イギリスではやがて大英帝国の礎となる貿易組織が産声を上げた。

さらに興味深いのは、この2つの出来事が偶然にも1本の糸でつながっていたことだ。関ヶ原の戦いの直前に日本へ漂着したリーフデ号の乗組員が、後の日英・日蘭貿易の橋渡し役になっていく。世界の反対側で起きた2つの出来事が、静かに1本の航路でつながっていたのである。

年表:1600年 日本と世界

時期日本イギリス
4月オランダ船リーフデ号が豊後に漂着
10月21日関ヶ原の戦い
12月31日エリザベス1世の特許状により東インド会社設立

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。