世界線日本史同時代史アーカイブ
閉ざされた港と出島を象徴するシルエットイラスト

寛永16年

鎖国が完成した頃、世界はどう変化していたか

1639年、江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、いわゆる「鎖国」体制を完成させた。同じ頃ヨーロッパは三十年戦争の泥沼にあり、満州では清朝が新たな帝国として立ち上がっていた。

出島と貿易船を象徴するシルエットイラスト

日本

江戸幕府は1630年代を通じて段階的に対外政策を厳格化し、1639年(寛永16年)、ポルトガル船の来航を禁止した。これにより、オランダと中国を除くヨーロッパ諸国との貿易・往来が閉ざされ、いわゆる「鎖国」体制が完成したとされる。

この政策の背景には、キリスト教の拡大に対する警戒と、貿易利益を幕府が独占しようとする意図があった。1620年代からオランダが東アジア海域での覇権を確立し、旧教国であるポルトガル・スペインの対日貿易ルートを締め上げていたことも、幕府の政策転換を後押ししたとされる。

もっとも近年の研究では、鎖国は完全な孤立ではなく、長崎の出島を窓口としたオランダ・中国との貿易、対馬を通じた朝鮮との関係、琉球を通じた中国との関係など、限定的ながら対外交流が江戸時代を通じて継続していたことが明らかになっている。

荒廃したヨーロッパの戦場を象徴するイラスト

ヨーロッパ

三十年戦争、出口の見えない泥沼へ

日本が鎖国体制を完成させた1639年、ヨーロッパでは三十年戦争(1618〜1648年)が終盤に差し掛かっていた。当初はドイツ国内のカトリックとプロテスタントの宗教対立として始まったこの戦争は、スペイン・オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家の覇権争いへと姿を変え、ヨーロッパのほぼ全域を巻き込む国際戦争になっていた。

1639年当時は「フランス・スウェーデン戦争」と呼ばれる最終局面にあり、フランスがアルザス地方の要衝を次々と制圧していた。ドイツ全土は長期にわたる戦乱で荒廃し、人口の3分の1を失ったとも言われる。戦争が終結するのは、鎖国完成から9年後の1648年、ウェストファリア条約によってである。

満州の宮殿建築を象徴するシルエットイラスト

中国(清)

清朝の建国と朝鮮の服属

日本が鎖国へと向かっていたのと同じ時期、満州では新たな帝国が急速に台頭していた。1636年、後金の第2代ハン・ホンタイジ(皇太極)は国号を「清」と改め、皇帝に即位した。

ホンタイジはその後、朝鮮に2度にわたって大軍を送り(丁卯胡乱・丙子胡乱)、1637年には朝鮮を屈服させて服属国とした。清はこの後さらにモンゴル諸部族を平定し、1644年には明を滅ぼして北京に入城、中国全土を支配する大帝国へと発展していく。日本が国を閉ざそうとしていた同じ時期、東アジアの大陸側では逆に新しい帝国が版図を急拡大させていたことになる。

なぜ同時期だと面白いのか

鎖国と三十年戦争は、一見正反対の現象に見える。日本は対外関係を閉じることで安定を選び、ヨーロッパは長期の戦乱によって国境も秩序も流動化させていた。だが視点を変えると、両者は同じ問いへの異なる答えだったとも言える。「国家の安定をどう確保するか」という問いに対し、日本は貿易と信仰を管理下に置くことで、ヨーロッパは主権国家という新しい枠組みを戦争の果てに作り出すことで応じた。

一方、清の急拡大は、日本の鎖国とはまったく別の力学で動いていた。同じ東アジアでありながら、日本が内向きの管理体制を選んだのに対し、満州の勢力は外へ外へと版図を広げていた。同じ時代の東アジアの中にも、まったく異なる方向を向いた2つの国家戦略が同時に存在していたことになる。

年表:1639年 日本と世界

時期日本中国(清)ヨーロッパ
1636年ホンタイジが国号を清と改め皇帝に即位
1637年朝鮮が清に服属(丙子の乱)
1639年ポルトガル船の来航を禁止(鎖国の完成)三十年戦争、フランス・スウェーデン戦争の局面
1644年明が滅亡、清が北京に入城
1648年ウェストファリア条約で三十年戦争終結

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。