
天正10年
本能寺の変の時、世界では何が起きていたか
1582年6月21日、京都・本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた。同じ年、ヨーロッパでは「10日間が消える」改暦が行われ、明では名宰相が世を去っていた。

日本
天正10年(1582年)6月2日(グレゴリオ暦6月21日)未明、京都四条西洞院にあった本能寺に、家臣・明智光秀率いる軍勢が襲いかかった。宿泊していた織田信長は寺に火を放って自害し、嫡男の織田信忠も二条御所で討ち死にした。
当時の信長は、毛利氏との戦いを進める羽柴秀吉の応援に向かう途中で、わずかな手勢とともに本能寺に滞在していた。光秀の謀反の動機については、怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、現在も歴史学上の論争が続いている。
信長の死後、事態は急展開する。備中高松城を攻めていた秀吉は毛利氏と急いで和睦し、わずか数日で京都へ引き返す「中国大返し」を敢行。6月13日(グレゴリオ暦7月2日)の山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継者としての地位を固めていった。

ヨーロッパ
「10日間が消えた」改暦
信長が本能寺で最期を迎えたのと同じ1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世は、ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦を断行した。ユリウス暦は実際の太陽年よりわずかに長く、16世紀には春分の日が暦上の日付から10日ほどずれてしまっていた。
この誤差は復活祭の日取りに直結する問題だったため、教皇は同年10月4日の翌日を10月15日とすることで、暦上の10日間を一気に削除した。
この改暦がすぐに世界標準になったわけではない。カトリック諸国はただちに導入したが、プロテスタント国のイギリスが改暦に踏み切ったのは170年後の1752年。日本がグレゴリオ暦を採用するのは明治6年(1873年)である。

中国(明)
名宰相・張居正の死
同じ1582年、明では万暦帝の治世を支えてきた内閣首輔・張居正が病没した。張居正は10歳で即位した幼い万暦帝を厳しく教育しながら、全国的な土地の測量や税制改革(一条鞭法)を断行し、傾いていた明の財政を立て直した名宰相として知られる。
だが張居正の死後、抑えられていた反対派が一斉に彼を弾劾し、万暦帝は張居正の官位を剥奪、財産を没収するという処分を下した。恩師の死を境に、万暦帝自身も政治への関心を失い、後年20年以上にわたって政務の場に姿を見せなくなる。この治世の乱れが、明滅亡の遠因になったとまで評されている。
なぜ同時期だと面白いのか
本能寺の変・グレゴリオ暦導入・張居正の死。この3つに直接的な因果関係はない。だが並べてみると、1582年という年が持つ意味が違って見えてくる。
信長も張居正も、既存の秩序を強引に組み替えようとした改革者だった。そして両者とも、その死をきっかけに後継体制が大きく揺らぐという共通点を持つ。
一方でヨーロッパの改暦は、政治的な権力闘争ではなく、教会が主導した社会インフラの刷新であり、その影響は数百年かけて世界中に広がっていく。同じ1年の中に、「一瞬で終わる権力の転換」と「数百年かけて世界に広がる静かな変化」が同居していた。
年表:1582年 日本と世界
| 時期 | 日本 | ヨーロッパ | 中国(明) |
|---|---|---|---|
| 2月24日 | ― | 教皇グレゴリウス13世、改暦の勅書を発布 | ― |
| 6月21日 | 本能寺の変。織田信長、明智光秀に討たれる | ― | ― |
| 7月2日 | 山崎の戦い。羽柴秀吉が光秀を討つ | ― | ― |
| 7月4日 | 安土城炎上 | ― | ― |
| 7月9日 | ― | ― | 張居正、病没 |
| 7月16日 | 清洲会議 | ― | ― |
| 10月15日 | ― | グレゴリオ暦の運用開始(カトリック諸国) | ― |
※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。