世界線日本史同時代史アーカイブ
夜討ちの提灯と刀を象徴するシルエットイラスト

元禄15年

赤穂浪士の討ち入りの頃、ヨーロッパでは何が起きていたか

1702年12月14日深夜、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入った。同じ年、ヨーロッパではスペイン王位を巡る大国間の戦争が始まり、大陸の勢力図を大きく塗り替えようとしていた。

赤穂浪士の討ち入りを象徴するシルエットイラスト

日本

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家旗本・吉良義央(上野介)に斬りつけるという刃傷事件が起きた。浅野は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易となったが、吉良にはお咎めがなかった。

これを不服とした赤穂浪士は、大石内蔵助を中心に雌伏の時を過ごした後、翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜、吉良邸に討ち入って吉良を討ち取った。四十七士による仇討ちは、後に「忠臣蔵」として演劇や文学の題材となり、主君への忠義と幕法違反という道徳的な相剋をめぐって、当時から現在まで論争の的となっている。

浪士たちはその後、切腹に処された。

ヨーロッパの宮廷と軍勢を象徴するイラスト

ヨーロッパ

スペイン継承戦争の勃発

赤穂浪士の討ち入りと同じ1702年、ヨーロッパではスペイン継承戦争が本格化していた。1700年、後継ぎのないままスペイン王カルロス2世が死去し、フランスのブルボン家出身の孫フィリップがフェリペ5世として即位したことが発端だった。

フランスとスペインが同君連合になることを恐れたオーストリア・イギリス・オランダなどはフランスに宣戦を布告。1702年にはイギリスでウィリアム3世が崩御し、新たに即位したアン女王のもとでマールバラ公ジョン・チャーチルが同盟軍の司令官に任命され、大陸へ派遣された。この戦争は1713年のユトレヒト条約まで11年にわたって続くことになる。

なぜ同時期だと面白いのか

赤穂事件とスペイン継承戦争は、規模もかたちもまったく異なる。一方は40数名の浪士による私的な仇討ち、もう一方はヨーロッパの大国が総力を挙げた国際戦争である。だが両者に共通するのは、「正統性」を巡る争いだという点だ。赤穂浪士は主君への忠義という武士の論理で行動を正当化しようとし、スペイン継承戦争もまた、王位継承の正統性を巡って大国同士が争った。

また、この時代の日本が徳川綱吉のもとで比較的平和な「元禄文化」を謳歌していたのに対し、同じ頃のヨーロッパは大国間の消耗戦の真っ只中にあった。同じ年でも、平和の中の劇的な事件と、戦争の中の日常という、対照的な時代の空気が広がっていたことになる。

年表:1702年 日本と世界

時期日本ヨーロッパ
1701年4月21日松の廊下事件。浅野長矩が吉良義央に刃傷
1701年オーストリアがスペイン領ミラノへ進撃、戦争開始
1702年アン女王即位、マールバラ公が同盟軍司令官に
1702年12月14日赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り
1703年1月30日浪士全員が切腹

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。