
明治37年
日露戦争の頃、ヨーロッパの勢力図はどうなっていたか
1904年、日本はロシアと戦争に突入した。同じ年、ヨーロッパでは長年対立してきたイギリスとフランスが「英仏協商」を結び、後の三国協商へとつながる大転換が起きていた。

日本
1904年(明治37年)2月、満州と朝鮮半島の支配権を巡る対立から、日本とロシアの間で戦争が始まった。陸戦では遼東半島や奉天が主戦場となり、海戦では日本近海で大規模な艦隊戦が繰り広げられた。
1905年、日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅すると、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により講和交渉が進み、ポーツマス条約が締結された。日本は朝鮮における権益をロシアに認めさせ、南樺太の割譲を受けた。
当時、欧米列強の植民地支配下にあった地域の人々の間では、有色人種国家が白色人種国家に勝利した前例のない出来事として、日本の勝利が大きな反響を呼んだとされる。

ヨーロッパ
英仏協商、百年以上の対立に終止符
日露戦争が始まったのと同じ1904年4月、イギリスとフランスは英仏協商(Entente Cordiale)を締結した。エジプトにおけるイギリスの権益と、モロッコにおけるフランスの権益を相互に承認するこの協定は、中世の百年戦争以来続いてきた両国の対立関係に終止符を打つものだった。
興味深いのは、この協商の成立を後押ししたのが日露戦争そのものだったという点だ。フランスは露仏同盟によってロシアと結び付いていたが、日露戦争でロシアが苦戦する中、フランスはイギリスとの関係改善を急ぐ必要に迫られた。日本とロシアの戦争が、ヨーロッパの外交地図を塗り替える一因になったのである。
この英仏協商は、1907年の英露協商と合わせて三国協商を形成し、後の第一次世界大戦における対独包囲網の骨格となっていく。
なぜ同時期だと面白いのか
日露戦争と英仏協商は、一見無関係な出来事に見える。だが実際には、日露戦争でのロシアの苦戦が、フランスをイギリスへと接近させる直接のきっかけになっていた。極東での戦争が、ヨーロッパの二大国の数百年に及ぶ対立を解消させる触媒として働いたことになる。
この視点に立つと、日露戦争は単なる日本とロシアの二国間戦争ではなく、20世紀初頭の世界秩序が組み替えられていく大きな連鎖の一部だったと見ることができる。日本の勝利がアジア・アフリカの被植民地の人々を勇気づけた一方で、同じ戦争がヨーロッパの同盟関係を再編し、後の第一次世界大戦へとつながる対立構造を用意していた。
年表:1904年 日本と世界
| 時期 | 日本 | ヨーロッパ |
|---|---|---|
| 2月 | 日露戦争開戦 | ― |
| 4月8日 | ― | 英仏協商締結 |
| 1905年5月 | 日本海海戦。バルチック艦隊壊滅 | ― |
| 1905年9月 | ポーツマス条約締結 | ― |
| 1907年 | ― | 英露協商締結、三国協商が成立 |
※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。