世界線日本史同時代史アーカイブ
黒船と蒸気船を象徴するシルエットイラスト

嘉永6年

黒船来航の時、世界ではどんな変化が起きていたか

1853年、ペリー率いる黒船が浦賀沖に現れ、日本に開国を迫った。同じ年、ヨーロッパではクリミア戦争が始まろうとしており、実はこの戦争こそが、日本の開国にアメリカが動く決め手になっていた。

浦賀沖の黒船を象徴するシルエットイラスト

日本

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる軍艦4隻が、江戸湾入り口の浦賀沖に姿を現した。蒸気船を含む黒く巨大な船団は、鎖国下の日本社会に大きな衝撃を与えた。

ペリーはアメリカ大統領フィルモアの国書を幕府に渡し、開国を要求。老中首座の阿部正弘は即答を避け、回答を1年後とすることで交渉を先延ばしにした。翌1854年、ペリーは再来航し、日米和親条約が締結されて下田・箱館が開港。これが幕末の始まりとされ、後の明治維新へとつながる大きな転換点となった。

黒海と軍艦を象徴するイラスト

ヨーロッパ

クリミア戦争、開戦前夜

黒船来航と同じ1853年11月、ロシアとオスマン帝国の艦隊が黒海のシノープで衝突し、翌1854年にはイギリス・フランスが参戦してクリミア戦争が本格化する。この戦争は、聖地エルサレムの管理権を巡る対立を発端に、ロシアの南下政策とオスマン帝国の衰退という「東方問題」が絡み合った国際紛争だった。

重要なのは、この戦争がアジアの状況にも影響したという点だ。イギリス・フランス・ロシアという海軍大国がヨーロッパでの戦争に集中していたことで、まだ新興国だったアメリカが太平洋への進出を進める好機が生まれた。ペリーの日本派遣は、この国際情勢の隙間を突いたタイミングだったとされる。

ロシアの軍艦を象徴するイラスト

ロシア

プチャーチンも日本へ

ペリーの来航からおよそ1か月後の1853年7月、ロシアのプチャーチン提督も長崎に来航し、開国と国境画定を求めていた。だがクリミア戦争開戦の報が届くと、ロシア艦隊は危険を避けていったん長崎を退いている。

最終的に日露和親条約が結ばれたのは1855年のことで、これによって択捉・国後は日本領、得撫島以北の千島列島はロシア領と定められた。日本の開国交渉が、遠く離れたクリミア半島の戦況によって左右されていたことになる。

なぜ同時期だと面白いのか

黒船来航は、日本国内では「外圧による開国」として語られることが多い。だが世界史的な視点で見ると、この開国はクリミア戦争という別の国際情勢の副産物でもあった。ヨーロッパの海軍大国がロシアとの戦争に手一杯だったからこそ、アメリカは邪魔されずに日本との交渉を進めることができた。

もし1853年にクリミア戦争が起きていなかったら、日本はイギリスやロシアといった、より強い軍事的圧力をかけられる国と最初に対峙していたかもしれない。黒船来航という「日本史上の一大事件」の背後に、ヨーロッパの勢力争いという偶然の追い風があったという点は、教科書の年表だけでは見えてこない繋がりだ。

年表:1853年 日本と世界

時期日本ヨーロッパ
6月3日ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航
7月ロシアのプチャーチンが長崎に来航
11月シノープ海戦。ロシアがオスマン艦隊を撃滅
1854年日米和親条約締結英仏参戦、クリミア戦争本格化

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。