世界線日本史同時代史アーカイブ
銅鏡と三国の旗を対比させたシルエットイラスト

弥生時代終末期

卑弥呼が使いを送った「魏」は、三国志の魏だった

239年、邪馬台国の女王・卑弥呼は魏に使者を送り「親魏倭王」の称号を得た。その魏とは、曹操の孫が治める三国志真っ只中の魏である。諸葛亮の死からわずか5年後のことだった。

銅鏡と祭祀を象徴するシルエットイラスト

日本

『魏志』倭人伝によれば、倭国では2世紀後半に大きな争乱があり、諸国が共同で邪馬台国の卑弥呼を女王に立てることで治まったとされる。卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる呪術的な力で人心を集め、弟が政治を補佐したと記されている。

239年(景初3年)、卑弥呼は大夫・難升米らを魏に派遣した。魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印、そして銅鏡100枚などを下賜したと伝えられる。この朝貢は、倭国が中国王朝の権威を後ろ盾として国内での地位を固めようとした外交だったと考えられている。

なお、邪馬台国の所在地(畿内説・九州説)は現在も日本古代史最大の論争の一つであり続けている。

三国の旗と城壁を象徴するシルエットイラスト

中国(魏)

三国鼎立、諸葛亮亡き後の魏

卑弥呼が使者を送った「魏」は、曹操の子・曹丕が後漢から帝位を譲り受けて建てた王朝であり、蜀・呉と天下を三分して争う、まさに『三国志』の魏である。239年の時点での皇帝は曹操の孫にあたる曹叡(明帝)だったが、彼はこの年の初めに世を去り、幼い曹芳が跡を継いだ。

蜀の名軍師・諸葛亮が五丈原に没したのは234年。卑弥呼の朝貢は、その死からわずか5年後のことになる。また、遼東で自立していた公孫氏を魏の司馬懿が滅ぼしたのは238年であり、朝鮮半島経由の交通路が魏の支配下に入った直後に卑弥呼の使者が到着したことになる。倭国の外交は、大陸の勢力図の変化を的確に捉えた動きだった可能性が指摘されている。

ローマの列柱と崩れかけた帝国を象徴するイラスト

ローマ帝国

「3世紀の危機」のローマ

同じ3世紀、ユーラシアの西端ではローマ帝国が「3世紀の危機」と呼ばれる混乱期に突入していた。235年以降、軍隊が皇帝を擁立しては殺すという「軍人皇帝時代」が約50年続き、短命な皇帝が乱立した。

東の中国では漢帝国が崩壊して三国が争い、西のローマでも帝国の統治が動揺する。ユーラシアの両端で「大帝国の秩序が同時に揺らいだ」のが3世紀という時代であり、卑弥呼の登場は、そうした大陸の混乱の時代を背景にした出来事だったと言える。

なぜ同時期だと面白いのか

日本の教科書では「卑弥呼」と「三国志」は別々の章で語られるため、両者が同じ時代の出来事だと意識する機会は意外と少ない。しかし卑弥呼が朝貢した相手は、諸葛亮と司馬懿が戦っていたまさにあの魏であり、『魏志』倭人伝という卑弥呼の唯一の同時代記録自体が、三国時代の歴史書『三国志』の一部である。

さらに視野を広げれば、漢とローマという東西の大帝国が同時に動揺していた3世紀は、周縁の勢力が歴史の表舞台に現れやすい時代だった。邪馬台国の登場もその一つと見ることができる。日本史の始まりの一コマは、ユーラシア全体の秩序変動の中に位置づけると、より立体的に見えてくる。

年表:239年 日本と世界

時期日本中国(魏)ローマ帝国
234年諸葛亮、五丈原に没す
235年軍人皇帝時代が始まる
238年司馬懿が遼東の公孫氏を滅ぼす
239年卑弥呼、魏に難升米らを派遣。「親魏倭王」の称号を得る明帝・曹叡が死去、幼帝曹芳が即位
248年頃卑弥呼死去と伝わる

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。