世界線日本史同時代史アーカイブ
蒙古襲来の軍船と東方への旅路を対比させたシルエットイラスト

文永11年・弘安4年

元寇の頃、マルコ・ポーロはフビライの宮廷にいた

1274年と1281年、元の大軍が日本に襲来した。実はその同じ時期、侵攻を命じた皇帝フビライ・ハンの宮廷には、ヴェネツィアから来た商人マルコ・ポーロが滞在していた。「黄金の国ジパング」の記述は、元寇と同じ時代の証言である。

博多湾の防塁と武士を象徴するシルエットイラスト

日本

文永11年(1274年)、元の皇帝フビライ・ハンは高麗軍を含む大軍を日本に送り、対馬・壱岐を経て博多湾に上陸させた(文永の役)。日本の武士たちは元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火器に苦戦したが、元軍は短期間で撤退した。

弘安4年(1281年)には、さらに大規模な軍勢が再び襲来する(弘安の役)。しかし今度は博多湾岸に築かれた石築地(防塁)が上陸を阻み、長期化した洋上の元軍は暴風雨によって壊滅的な被害を受けて敗退した。

二度の襲来を退けた鎌倉幕府だったが、外国との戦争のため恩賞として与える土地がなく、命がけで戦った御家人たちの不満は解消されなかった。元寇は幕府の統治体制が揺らいでいく遠因になったとされる。

元の宮廷と駱駝の隊商を象徴するシルエットイラスト

元(中国)

フビライの宮廷とマルコ・ポーロ

日本への侵攻を命じた元の皇帝フビライ・ハンの宮廷には、まさに元寇と同じ時期、ヴェネツィア出身の商人マルコ・ポーロが滞在していたと伝えられる。マルコは1271年に父・叔父とともにヴェネツィアを出発し、シルクロードを経て1275年頃にフビライの宮廷に到達。以後約17年にわたって元に滞在し、フビライに仕えたとされる。

帰国後に口述された『東方見聞録』には、日本が「ジパング」として登場する。宮殿の屋根が黄金で葺かれた豊かな島国であり、フビライが遠征軍を送ったが暴風で失敗した、という記述は、まさに元寇のことを指している。マルコ自身は日本を訪れていないため内容は伝聞に基づく誇張を含むが、「黄金の国ジパング」のイメージは後のヨーロッパ人の東方への憧れをかき立て、大航海時代の遠因の一つになったとも言われる。

なぜ同時期だと面白いのか

元寇は日本史の中では「神風で撃退した外敵」の物語として語られるが、視点を大陸側に移すと違う風景が見えてくる。フビライの宮廷から見れば、日本遠征はユーラシア全域に広がるモンゴル帝国の拡大事業の一部であり、その宮廷には東西の人材や情報が集まっていた。マルコ・ポーロという西洋人が、日本遠征の失敗をほぼリアルタイムで見聞きし、それをヨーロッパに持ち帰ったという事実は、13世紀の世界がすでに一つの情報圏として繋がり始めていたことを示している。

さらに皮肉なのは、その伝聞が生んだ「黄金の国ジパング」の幻想が、約200年後にコロンブスを西へと向かわせる動機の一つになったことだ。元寇という「日本が世界史と衝突した瞬間」は、巡り巡って大航海時代、そして戦国時代の鉄砲・キリスト教伝来へと繋がる長い糸の起点でもあった。

年表:1274年 日本と世界

時期日本元(中国)
1271年フビライが国号を「元」と定める。マルコ・ポーロ一行がヴェネツィアを出発
1274年文永の役。元軍が博多湾に襲来
1275年頃マルコ・ポーロがフビライの宮廷に到達
1279年元が南宋を滅ぼし中国を統一
1281年弘安の役。元軍が再襲来するも暴風雨で壊滅
1290年代マルコ・ポーロが帰国。『東方見聞録』が口述される

※日付はグレゴリオ暦に統一して比較。日本側は当時和暦のため換算値です。